4.[江川剛史の生涯]大学編
1.[江川剛史の生涯]誕生から小学校卒業まで 2.[江川剛史の生涯]中学校編 3.[江川剛史の生涯]高校編 私は大東文化大学文学部英米学科に入学しました。 中学校の英語教員を目指していたので、 英米文学科にしたのです。 英語の授業では、 中々クラスに馴染めず、 私は一人で授業を受けました。 このまま一人じゃ駄目だと思い、 部活に参加することにしました。 教員を目指していたので、 児童文化研究部という部活を選びました。 児童文化研究部は、 50名以上いる大きな部でした。 児童館で行う企画を考える実践班、 童話を研究する童話班、 手話を研究する手話班がありましたが、 私は童話班の日に見学に行き、 私はそのまま入部しました。 部活はめちゃくちゃ楽しかったです。 川越こどもの城で、 子ども達と外遊びしたり、 人形劇をしたり、 高坂図書館では、 本の読み聞かせをしたり、 紙芝居をしたり、 子ども達と仲良くしました。 この頃は、 本当に子どもが好きで、 とても楽しかったです。 部活の男子とも女子とも仲良くし、 夏には旅行へ行き、 肝試しなどもしました。 後輩の女の子と、 肝試しに行った時、 驚かせようとして、 世にも奇妙な物語の着信音を、 アラームタイマーで流したり、 変な道を通ったり、 いきなりノロノロ歩いたり、 楽しんだのをよく覚えています。 大東文化大学では、 パソコン室が開放されていて、 パソコンが自由に使えました。 私はそこで、 初めて本格的にパソコンに出会い、 様々なサイトに出会いました。 最初は占いサイトや、 ゲームサイトなど見たりしましたが、 ネットの面白さには、 凄く嵌りました。 大学2年生の時、 私はファーストキッチンのアルバイトを始めました。 キッチンでハンバーガーをたくさん作り、 楽しく働いていました。 そして2月14日のバレンタインデーの日。 ある女の子からチョコレートを貰いました。 中には、 手紙で、 私はどうですか。 と書かれていました。 メールで、どういう意味?と聞いたら、 付き合いたいとのことでした。 私は考えてみて、 次に会った時に、 付き合おうと話し、 付き合うことを始めました。 その娘とは、 遊園地にも行ったし、 旅行にも行ったし、 週二回会う日を決めていたくらい、 仲良く付き合っていました。 でも、その頃の私は、 彼女に、 「好きだよ。」とか、 「愛してるよ。」とか、 そういうことを一切言わず、 愛情表現も不足していました。 そして、付き合って10ヶ月目の頃、 別れよう。 そう彼女に切り出されました。 私は引き止めずに、 「分かった。」 そう言いました。 そうして私は彼女と別れました。 未練があって、 別れてから手紙を送ったりもしましたが、 結局、復縁することはありませんでした。 大学4年生になりました。 部活の後輩が、 ホームページを作ったといって、 私に見せてくれました。 ホームページは、 作れたりするんだな。 そう感じた私は、 自分でもホームページを作成してみました。 ホームページの内容は、 教育にしよう。 教育で世界を変えよう。 そう思った私は、 WCT教育指導改革ホームページを開設しました。 WCTというのは、 Wishes come trueのことです。 願いは叶う。 叶う条件を満たすことさえ出来れば。 その言葉を胸に、 私は自分の願いを叶えるために、 ホームページ活動をしました。 ある日、 大学のパソコン室で、 ふいに、 普段検索しないような文字で、 検索したくなり、 検索してみました。 すると、 今は無い、 巨大なメンタルサイトに、 出会いました。 そこでは、 たくさんの人が、 苦しみを書いていました。 私は、その時、 助けなきゃ。 そう思って、 必死に掲示板でメッセージを書きました。 私は自分の運営するサイトでも、 相談に乗りたいと考えるようになり、 自分のホームページに、 無料相談掲示板を開設しました。 私は全く、この頃、 苦しみを感じて生きていない、 楽観主義者だったので、 私の助けるためのメッセージも、 必ずしも効果的ではありませんでした。 そんな時に、 偽という人と討論し、 自分自身は、 不幸な人、 苦しんでいる人との関わり方を、 何となく身に付けることが出来た気がしました。 大学4年生の中盤、 私は教員免許を手に入れるために、 中学校へ教育実習に行きました。 中学校での教育活動は、 予想以上に大変で、 私は精神的に押し潰されそうになりました。 そんな時、 ELLEGARDENというインディーズバンドの曲を聴いて、 教育実習を乗り切りました。 「いつだって君の声が、 この暗闇を切り裂いてくれる。 いつか、そんな言葉が、 僕のものになりますように。 そうなりますように。」 この歌詞を聴いて、 毎日、自分を振り正していました。 大学4年生後半。 みんな就職活動などを、 始めていました。 私は就職活動は一切せずに、 教員採用試験の勉強をしました。 そして埼玉県教員採用試験を受けました。 結果は不合格。 私は教員にはなれませんでした。 こうして私は、 大東文化大学文学部英米文学科を、 卒業しました。 5.[江川剛史の生涯] 社会人とカウンセリング編
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