1.[江川剛史の生涯]誕生から小学校卒業まで
このページでは、 私、江川剛史の生涯を話します。 まず、誕生から小学校卒業までです。 私は昭和57年11月に生まれました。 初めての子だったので、 私が長男です。 荒川区の一軒家で、 私は育ちました。 人見知りで、 あまり友達は多くはありませんでした。 荒川区立尾久幼稚園に入学し、 毎日、母のお弁当を食べながら、 幼稚園に通いました。 この頃は、 ガンダムが好きで、 ナイトガンダムのプラモデルと、 ブラックドラゴンのプラモデルで、 闘いゴッコなどを一人でしたり、 キョンシーのビデオや、 宮崎駿さんの天空城ラピュタのビデオなどを、 よく見ました。 この頃も、 あまり男友達とは遊ばなかったけれど、 幼馴染の女の子には、 よく誘われて遊びました。 家の近くに交通公園と呼ばれている、 自転車に乗って交通を学べる公園がありました。 そこに父と行き、 自転車に乗る練習をしました。 最初は父が後ろを押さえて、 私は自転車を漕ぎましたが、 ある時、漕いでいる最中に、 父が手を離して、 それでも自転車に乗れて、 私は自転車に乗れるようになりました。 そして町屋にスイミングスクールNASが出来たので、 私はスイミングスクールに通い始めることになりました。 最初はビート板に手をつきながらバタ足したりしながら、 泳ぎの練習もしました。 それから尾久幼稚園を卒業し、 私は荒川区立赤土小学校に入学しました。 相変わらず自分は無口で、 「答え、分かる人〜?」と、 先生が呼びかけて、 みんな手を上げるのに、 私だけ手を上げない生徒でした。 運動は苦手だったけれど、 テストの方は100点ばかりでした。 この頃、 ファミコンを親に買ってもらい、 スーパーマリオブラザーズ3などで、 遊んだりしました。 でもスーパーマリオブラザーズ3は、 ワープ機能が付いている笛で、 8面までは行ったことがありますが、 結局、全面クリアは出来ませんでした。 この頃、 ガンダムのカードダスがおもちゃ屋で、 売られるようになり、 私はナイトガンダム物語のカードダスを集めました。 町屋のTSUTAYAの横に、 ビデオボーイという店があり、 そこでウルトラマンのビデオが、 レンタルできたので、 母に頼んで、 ウルトラマンAとウルトラマンタロウのビデオを借りました。 ウルトラの5兄弟が登場し、 ピンチになってしまう、 エースキラーの回、 ウルトラの兄弟が助けに来たのに、 全員ブロンズ像になってしまう、 ヒッポリト星人の回などは、 手に汗握る展開で、 凄く面白かったです。 この頃、 ドラゴンボールが始まり、 私は毎回欠かさずテレビで見ました。 クリリンと共に、 亀仙人の牛乳配達の修行を受ける場面などは、 自分を成長させるためには、 修行することが大事なんだと分かり、 努力の大切さが分かりました。 赤土小学校の近くに英会話の塾、 ミネルヴァがありました。 私はその英会話の塾に通い始めました。 やることは、簡単な英語の挨拶を最初にして、 その後はカードゲームをしました。 その絵の単語は何だ? と聞かれて、 Tometoとか、答えることをしました。 小学校3年生になると、 とてもリーダーシップのある女性の先生が、 担任になりました。 石塚先生といいます。 石塚先生の下で、 私は勉強しました。 今まで体育が苦手でしたが、 縄跳びの表を貰って、 私は必死で家の前で、 縄跳びを練習しました。 すると運動が苦手なのに、 二重跳びが11回も出来ました。 私の父も、 それを窓から見ていて、 凄く喜んでいました。 小学校3年生の2月14日、 初めてバレンタインチョコレートを貰いました。 私が男友達の家に遊びに行っている時に、 家に来たようで、 直接は貰いませんでした。 ハート型のチョコレートが、 たくさん入っていて、 私は初めてバレンタインデーを知ったと共に、 凄く嬉しかったことを覚えています。 でも、次の日、 チョコをくれた女の子にお礼も言えず、 ホワイトデーにも何も返しませんでした。 本当、不器用な男です。 小学校3年生の担任の石塚先生は、 サッカークラブの顧問もしていました。 その影響で友達と共に、 サッカークラブに入部しました。 私はサッカーを面白いとは思いませんでしたが、 何となく参加していました。 バックス(ディフェンダー)のポジションで、 二軍のチームに参加しました。 ある日の遠足の時、 西日暮里近くの公園へ遠足に行きました。 その時、歩道橋の所で、 ホームレスに出会いました。 石塚先生は、 ホームレスと話をして、 お金を渡していました。 この光景は、 何となく私の中で記憶に残っていました。 3年生になると、 学芸会で劇をやるようになり、 怪獣が出たという劇をやることになったのですが、 何を考えたのか、 私は主役の怪獣役に手を上げてしまいました。 メロディオンの楽器演奏か、 怪獣の役をやるか、 どっちが良いか、 そんな感じで聞かれて、 とっさに手を上げた感じです。 母が一生懸命、怪獣の衣装を作り、 私はそれを着て、 劇に参加しました。 台詞もしっかりあって、 私は劇を楽しみました。 小学校4年生になると、 石塚先生は違う学校へ移動になり、 担任の先生は違う先生になりました。 成績は段々悪くなりました。 サッカークラブは、 変わらず続けました。 この頃、 RPGにも目覚めて、 ドラゴンクエストVなどを買って遊びました。 中古で買ったので冒険の書には、 ダーマの神殿まで行った記録がありました。 強いモンスターが出てきて、 凄いなと思いました。 結局私は、 最初からプレイして、 ピラミッドの面をクリア出来ずに、 ドラゴンクエストVは止めました。 小学校5年生になりました。 友達がファイナルファンタジーW、 ファイナルファンタジーVをやっていて、 ラスボスを倒すところを見せてくれました。 ファイナルファンタジーに興味を持った私は、 ファイナルファンタジー4イージータイプというゲームを、 中古で買い、 始めてみました。 これが予想以上に面白く、 主人公のセシルが、 過去の自分と対決し、 暗黒騎士から正義の騎士である、 パラディンに変化するところなど、 私の人間性に大きな影響を与えました。 僕も暗黒騎士じゃなく、 パラディンになろう。 そう思いました。 小学校6年生の頃になると、 スーパーファミコンが売り出されました。 私はファイナルファンタジーYを買い、 私は夢中になってゲームをしました。 ケフカによって、 世界が崩壊されるシーン、 そんな絶望から立ち上がる希望のシーン。 私は希望を持つ大切さを学びました。 小学校6年生の時、 好きな女の子が出来ました。 席が近くになった時には、 ドキドキして、 顔が真っ赤になったほどです。 二回も席が近くなり、 好きな女の子と仲良く話したり、 からかったりしました。 初恋でした。 学芸会では、 魔女の劇をやることになり、 私は男なのに、 魔女の一員になりました。 母が作った魔女の帽子を被って、 演じたのを、よく覚えています。 この頃、 家の近くの補習塾の育英塾に通い始めました。 私の母も通った塾です。 先生は早稲田大学出身の人でした。 部首を学んだりしたことを、 よく覚えています。 小学校6年生、卒業真近、 一部の人は私立や、 違う中学校の進路を選んでいました。 私の好きな女の子は、 違う中学校を進路にしていたので、 私は初めて失恋しました。 この頃、 初めて音楽に目覚め、 私はMr.ChildrenのAtomic Heartというアルバムを買って、 失恋の名曲、OVERを聴いて、泣いたりしました。 こんな感じで、 私は小学校を卒業しました。 2.[江川剛史の生涯] 中学校編
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